スタジオジブリ作品「風立ちぬ」には、カプローニという謎の男性が登場します。今回は、カプローニという人物がどんな人物であるのか、彼の名台詞や名シーンにはどんなものがあるのかといったことを紹介していきたいと思います。
カプローニの基本情報
名前 | カプローニ |
性別 | 男 |
年齢 | 不明 |
声優 | 野村萬斎(のむらまんさい) |
カプローニの特徴
カプローニは「風立ちぬ」においては主人公の堀越二郎の夢の中にのみ登場します。二郎が幼少期の頃から二郎の夢に度々現れるものの、姿や服装は全く変わりません。黒いスーツを見に纏い黒い帽子を被り胸ポケットにはピンク色の布を差し、青いネクタイをしています。鼻下には細長い髭を生やしており、他のジブリ作品である「紅の豚」に登場するキャラクターをどことなく思い出させます。
カプローニの性格
カプローニはあくまでも二郎の夢に出てくる人物であるので、二郎がカプローニの存在をどこか心の奥底で密かに望んだ時にしか現れません。よって、二郎には比較的都合のいいともとれるアドバイスを送ることが多く、優しく紳士的な物言いのする性格であるようです。
しかし、二郎の幼少期には設計家になるという考えを与えたり、これからの二郎の人生への助言をしたりと、二郎には思いつかなかったようなことも発言することもあります。
カプローニのモデル
「風立ちぬ」におけるカプローニは、カプロニ創業者であるジャンニ・カプローニという実在する人物をモデルにしています。
彼は1886年の現在はイタリアの地に生まれます。ミュンヘン工科大学で学び、1907年頃からは航空用エンジンの開発を行い、イタリアが第一次世界大戦に参入した後には爆撃機の設計や製造にも携わりました。戦後には、爆撃機を元に旅客機を作るものの、イタリア初の民間機災害がその旅客機で起きてしまうという事故に見舞われてしまっています。
宮崎駿は声の担当者への演技指導では「カプローニは二郎にとってのメフィストフェレス」だと説明しています。こちらは実質的なモデルというよりも宮崎駿監督のイメージに近いものと思われます。
カプローニの声優
カプローニの声を務めたのは、能楽狂言方和泉流野村万蔵家の名跡であり俳優でもある野村萬斎さんです。東京都に生まれ、2人の姉と1人の妹がいる中で、1969年にわずか3歳にして狂言の初舞台である「靭猿」の子ザル役を演じました。狂言以外の活躍も幅広くと気品ある物腰、独特の発声等で存在感を示す。
1994年の大河ドラマの「花の乱」や1997年の連続テレビ小説「あぐり」に出演しました。また、「あぐり」の演技が評価され、日刊スポーツ・ドラマグランプリ助演男優賞と第15回ザテレビジョンドラマアカデミー賞の助演男優賞を受賞しています。
その後、映画2001年「陰陽師」では主演の安倍晴明を演じ、ブルーリボン賞主演男優賞と第25回日本アカデミー賞新人俳優賞及び優秀主演男優賞を受賞し、続編である2003年「陰陽師Ⅱ」でも同じく主演を務めました。
カプローニの名台詞・名シーン
「いいかね、日本の少年よ。私は飛行機の操縦はしない。いや、できない。ハハハハハ。パイロットに向いている人間は他にたくさんいる。私は飛行機を作る人間だ。設計家だ」
カプローニは二郎の夢の中に登場します。飛行機に憧れを抱き、飛行機のパイロットになりたいと思っていた二郎はそれが叶わないと知りながらも、近眼であることを気にしていました。しかし、カプローニは設計家であることに誇りを持っており、それを感じ取った二郎は目が覚めてから設計家に自分もなるということを決めます。
「設計で大切なのはセンスだ。センスは時代を先駆ける。技術はその後についてくるんだ」
日本での仕事ぶりが認められ、ドイツの飛行機工場を見学することとなった二郎は、日本とドイツとの大きな技術力や資本力の差を思い知らされられることになりました。それでもドイツに負けないような優れた飛行機を作るにはどうしたらいいかと二郎は模索していました。そんな時に、カプローニは再び二郎の夢に登場してきて二郎を励まします。
「私はこの飛行を最後に引退する。創造的人生の持ち時間は10年だ。芸術家も設計家も同じだ。君の10年を、力を尽くして生きなさい」
カプローニはまたもや二郎の夢に現れ、そして飛行機の設計家を引退ことを二郎に打ち明けます。それはカプローニの創造的人生は終わってしまいましたが、二郎にはまだこれからあるから頑張れという熱いメッセージでありました。その後、二郎は思い描いていた夢の飛行機の実現へと向けて様々な飛行機を設計していきます。
夢の中の人物
カプローニは劇中で実際に登場した訳ではなく、ただ何度も何度も二郎の夢の中に現れました。二郎の他の人には話しがたい部分を明かしてくれた存在です。また、カプローニがいたからこそ二郎は設計士になることを志したきっかけともなったので、ある意味では最も重要な人物でもあったのではないでしょうか。