【キングダム】悲しき名将白起(はくき)の史実での活躍まとめ

昭王時代の秦六大将軍のひとりとして歴史に名を残した白起ですが、キングダム作中では「長平の戦い」のエピソードにて登場します。

白起は主人公のと深いかかわりのある王騎らと共に、かつて秦国王から軍事にまつわる責任を委ねられたほどの大将軍として名を連ね、さらに中華戦国史上、類をみない「ある奇策」でその名を轟かせました。作中ではこの奇策がのちに若年王・嬴政(えいせい)の幼少期にも影を落とすことになります。

そして実際には晩年の白起自身の精神をも蝕むほどの、想像を絶する悪の所業だったのです。

この記事ではその残忍さで中華全土を震え上がらせた名将白起と、その悲しい生涯に迫ります。

白起(はくき)の基本情報

【キングダム】悲しき名将白起(はくき)の史実での活躍まとめ

『キングダム』(C)原 泰久/集英社

秦国(昭王時代)六大将軍として領土拡大に大きく貢献した白起は、相手をよく分析し、戦い方を見極めた上、かつ大胆に攻め入るという冷静沈着な知識と作戦に見合った武を兼ね備えた、極めて優れた武将であったようです。そのため昭王の時代では軒並み各国の大軍を相手に勝利を収めた白起のおかげで、秦軍の強さは揺るぎないものとなっていました。

白起を語る上で不可欠なのが、やはり春秋戦国時代最大の戦いともいわれた「長平の戦い」です。白起は圧倒的不利なこの戦いにおいて見事勝利を収めましたが、その長い戦い後に産んだ惨劇こそが、白起の武将人生の象徴となるのです。

白起(はくき)の来歴

キングダム作中では、白起は第8巻で秦・嬴政の出生と共に語られた「長平の戦い」の回想シーンにて登場します。

政の出生前にあたる紀元前260年、白起は秦軍総大将として、廉頗(れんぱ)率いる趙軍と領土をめぐり争っていました。2年もの長い戦いの末、趙軍総大将が廉頗から趙括に変わったのを好機に秦軍は白起の指揮のもと一気に趙軍を制圧し、勝利をつかむのです。

しかし、白起の恐ろしさはここからです。

【キングダム】悲しき名将白起(はくき)の史実での活躍まとめ

『キングダム』(C)原 泰久/集英社

趙軍は40万の兵を残し降伏しましたが、遠征で長い戦いを強いられていた秦にはこれだけ膨大な兵士たちを養うだけの兵糧が残されていませんでした。さらに投降したとはいえ、この兵士たちが反乱を起こせば軍が危険に晒される、という理由から、白起はとんでもない奇策に出るのです。

白起がとった恐ろしい奇策とは、降伏した40万の兵を生きたまま地に埋め、一人残らず趙兵を葬るという内容でした。

白起(はくき)の史実

【キングダム】悲しき名将白起(はくき)の史実での活躍まとめ

『キングダム』(C)原 泰久/集英社

さて、この白起という武将ですが、歴史上も実在したことが史実として残っています。『史記』によれば、「公孫起」とも表記され、キングダムで描かれる猛々しい印象とは裏腹に、史実に残る肖像ではどちらかというと知的な印象を受けます。

キングダム作中では、40万の趙兵を生き埋めにした残忍で冷淡な武将として描かれている白起ですが、史実では40万ではなく20万人とされています。いずれにしても残忍なことに変わりはありません。長平での勝利に勢いづいた秦軍を率いて、そのまま趙の王都・邯鄲へ攻め入るつもりでいた白起は、捕らえた20万の捕虜を並ばせて、地に溝を掘るよう命じました。そして溝が深くなった頃、底にいる捕虜の頭上から土をかけさせ、生き埋めにした、とされています。

【キングダム】悲しき名将白起(はくき)の史実での活躍まとめ

『キングダム』(C)原 泰久/集英社

またこの「長平の戦い」以前にも彼は思い切った大虐殺を繰り返しており、紀元前273年には「華陽(かよう)の戦い」で韓・魏・趙をそれぞれ制圧し、各将軍とその他に生き残った兵13万人の首をはねたばかりでなく、同じ年に黄河流域にて趙軍を攻め倒した際は、兵2万人を捕らえて川に沈めたといいます。また、紀元前264年の「陘城(けいじょう)の戦い」では韓の領土にあった5つの城を陥落させ、こちらでも投降した5万の兵と民をことごとく斬首したとも記されています。

このように容赦なく、徹底的に敵兵を抹殺する白起の戦いっぷりにより、この時期の各国は秦をより脅威に感じることとなったわけですが、決してただ血生臭く荒々しいだけの戦い方ではなかったようです。

「長平の戦い」では、2年間にも及ぶ膠着状態の中にあって廉頗による兵糧攻めに耐えながら、白起は裏である巧みな情報操作を行い戦況を動かすのです。

白起は多くの間者を使い「秦軍は廉頗よりも、趙に控える若大将・趙括(ちょうかつ)が出てくることを恐れている」という、いわばデマを趙国内に広めました。動かぬ戦況に業を煮やしていた趙王はこれを耳にするとすぐさま廉頗の任を解き、実戦に出た経験がほとんどない、若い趙括を総大将に据え出陣させました。

しかしいざ戦場に出た趙括はマニュアル通りの戦術しか持ち合わせていなかったがために趙軍は待ち受けるようにして張り巡らされた白起の策にはめられ、趙括はあっさり討たれることとなるのでした。

これは全て白起の読み通りだったのです。厄介な廉頗を引かせ、戦い慣れていない未熟な趙括をおびき出すことに成功したばかりでなく、その戦術をことごとく読み確実に軍を勝利へと導いた末の戦果でした。

また「長平の戦い」のみならず、多くの戦況において白起の率いる軍は敵軍よりも数では圧倒的に劣っていたということも知られています。少ない兵を生かし、戦術を巧みに操って勝利を勝ち取る白起は、名実ともに偉大な大将軍であったということは間違いなさそうです。

白起(はくき)の名シーン

【キングダム】悲しき名将白起(はくき)の史実での活躍まとめ

『キングダム』(C)原 泰久/集英社

作中では、この40万の兵を生き埋めにするシーンが「やれ」という無情な白起の表情と、一方で「怨念となって永劫に秦を呪ってやるぞ」と無残にも生き埋めにされる趙兵の悲痛な叫びが対照的に描かれています。以降この惨劇は中華の歴史と趙国の人々の心に深い恨みとなって刻まれ、作中も「長平の呪い」として27巻の万極という武将の生い立ちでも再び触れられます。

そしてやがて若年王として秦の国王に即位する嬴政はこの「長平の戦い」の翌年、奇しくも人質として囚われていた趙国の王都・邯鄲にて生まれ落ちたのです。それゆえ、趙の人々にとって秦王の血を引いた政は憎悪の象徴となり、市民からいわれのない暴力や虐待を受け続ける壮絶な幼少期を過ごすことになったのです。

白起(はくき)のまとめ

【キングダム】悲しき名将白起(はくき)の史実での活躍まとめ

『キングダム』(C)原 泰久/集英社

「私は天に対して罪を犯したのだ。」

ではこの名将白起の最期は、さぞかし強大な敵との激闘の末、華々しく討たれたことと想像します。しかし実際の白起はなんと「自害した」と記録されているのです。

実はこの「長平の戦い」の後、白起は当時の秦国宰相であった范雎という人物にその活躍を妬まれ、その進言に従った秦王の命を受け撤退を余儀無くされるのです。この戦いで実に多くの兵を虐殺した理由には、その先に見据えた趙の王都を落とすという大いなる野心があった白起はこの不本意な命に対し憤慨したといいます。

秦国内に戻された白起は、これを機に出征を拒むようになり、自宅の部屋に閉じこもるようになりました。その後、秦国家の危機にも耳を貸さず籠城を続けた白起に秦王は怒り、ついに自害するよう命じたのでした。

范雎の陰謀により、白起が犯した残酷極まりない惨事は次の戦果に繋がることなく、ただの大虐殺の罪として人々の記憶と彼自身の中に忌々しく刻まれてしまったのです。現に白起は生き埋めにした20万の兵の中から少年兵240人余りを助命しており、ただむやみな殺戮を好む狂気じみた武将ではなく、戦果をあげ、国を勝利に導くためには一切の妥協を許さない確固たる信念ゆえの判断だったようにも感じられます。

白起はかつて忠誠を誓った王から送られてきた自害用の剣を前に、何を思ったのでしょう。ただ史実としてはっきりと残されているのは、おびただしい数の兵を生きたまま地に埋めたという、かつて誰も経験したことのない罪悪感にまみれ、苦しみ続けたであろう晩年の白起の最期の言葉です。

「私は死ぬべきなのだ。私は20万もの人々を生き埋めにした。私は天に対して罪を犯したのだ。」

今後のキングダム作中に登場する可能性の低い白起ですが、かつて秦を大国へと導いた伝説ともいえる六大将軍の一人として、今もなお語り継がれ、人々から憧れられる存在としてその名は残っていくでしょう。ぜひ史実やこうした記事をもとに、白起の背景も知っていただきながら本作キングダムを読んでいただくと、さらに深みが増してより一層楽しんでいただけるかと思います。