20世紀の日本のアニメ界において最も有名な、最もたくさんの人々に観られた長編アニメ映画といえばこの、【もののけ姫】を挙げる人も少なくないと思います。
そういうのも、20世紀の日本の歴代興行収入において第1位を獲得しているからです。
いまなおその魅力や人気は衰えることはなく、スタジオジブリも大きく盛り上がっていますが、当時はさらなる盛り上がりを魅せていました。
その【もののけ姫】魅力の一つに神格化された存在との共生、また戦いがありますかつて「猩々」もその一つとされていましたが作中ではそんな風には描かれていません。
今回は、そんな「猩々」についての正体やその秘密についてのご紹介をしていきたいと思います。
「猩々」の基本情報
「猩々」についての基本情報をご紹介していきたいと思います
性別 | 男性 |
種族 | 猿神 |
嫌いなもの | 人間 |
通り名 | 森の賢者 |
「猩々」の正体とは?
そもそも「猩々」とはいったい何者なのでしょうか?
「猩々」とはオランウータンの和名になります、猿のような外見をしていますがそれよりは少し大きな風貌をしていることからも作中でもオランウータンとして描かれている可能性はあります。
しかし、「猩々」あるいみ神格化された意味合いで使用されることが多く、古典書物に記された架空の動物として扱われることもあります。
ちなみに、チンパンジーの和名は黒猩々、ゴリラの和名は大猩々になります。オランウータンの語源も「orang(人)hutan(森)」と森の人といいう意味が込められています。
「猩々」の見た目や性格
【もののけ姫】の作中で描かれている猩々は二ホンザルよりも大きな霊長類として描かれ、体は闇に溶け込むほどに黒く、目だけが赤く光っていてとても不気味です。
人語を解し、片言ではありますが会話も成立します。この状況からも、見た目的にはオランウータンに近い存在と考えることができると思います。
性格は卑屈にして卑怯、森を奪っていった人間を憎んでおりサンに対しても人間であるという判断をし石を投げつけてきます。
人間を倒す知恵を得るために人間を食べようと考え、サンに重傷を負って倒れているアシタカを差し出すよう要求します。
また、エボシ御前と猪達との戦いの直後、森に入ってきたジバシリに恐れ慄き、逃げ出していきます。
「猩々」の秘密
この「猩々」、作中では卑劣で卑屈な存在として描かれていますが、本来は森の賢者とも謳われるほどに知能も高く尊い存在でした。
しかし、自然を食い荒らす人間たちの前に無力を悟り、人間を食べれば人間の知能を得ることができるというような浅はかな思いをもって行動してしまいます。
本来の「猩々」達は今なお自然を愛し、自身らの生きる森を守るために木を植え続け、森を生き返らせようとする一面も見られています。
このことからも、「猩々」の本当の姿は森を守り、繁栄させる存在で森の住人達からも尊敬される存在であったと考えることができます。
度重なる自然破壊、人間という自然界にとっての大敵の前に粗暴な言葉を使用してしまったり、森を荒らす人間たちに対し荒ぶる性格へと変貌していった、一番の被害者達なのかもしれません。
「猩々」の名シーン・名セリフ
「猩々」の名シーンや名セリフをご紹介していきたいと思います。
「人間食う、人間の力もらう、人間やっつける力ほしい。だから食う」
森を守るためにエボシ御前を討ち取るため、タタラ場を襲撃したサン達ですが、タタラ場の応戦やアシタカの前にあえなく失敗、その場から逃げおおせる為にアシタカは深手を負ってしまいました。
タタラ場から少し離れた山の岩場で傷つき倒れたアシタカと、サンを包囲します。そこでサンやアシタカに向かってこの言葉を発します。
かつては森の賢者とまで謳われる存在だった「猩々」ですが、激しい人間への憎しみや怒りから人間を食べてその知性を奪うといった浅はかな考えに至っている姿が描かれています。
「山犬の姫(サン)もどうせ人間なんだろ、誰もわしらの事を守ってくれない、わしらは死ぬしかないのだ」
上記状況の流れで「猩々」達が、サンやアシタカそして山犬に向かって浴びせた言葉になります。
人型をしているが、山犬の姫としてあがめていたサンですが、「猩々」達もうすうす本物の人間であることに気づき人間の味方をしていると罵ります。
この言葉により、完全に森の賢者としての尊厳は失われてしまい、山犬に「無礼な猿どもめが!首を引きちぎってやる!」と激怒されてしまいます。
しかし、そのような言葉にも立ち向かうでもなく離れた場所から石を投げて反撃するという卑怯な攻撃をしてきます。
まとめ
人間の行ってきた自然破壊による、森の住人や動物たちへの影響が描かれています、人間たちの繁栄の裏側では「猩々」達のように生きる場所を追われた動物たちの犠牲の上に成り立っていることを痛感させられます。
ついには山犬の姫(仲間)に対してまでも矛先を向けてしまうようになってしまったという現実、悲しいですがこれが宮崎駿監督の描く、自然破壊への嘆き、悲劇である事が伝わってきますね。